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グアテマラ、サン・ペドロ・ラ・ラグーナを目指して。その②~グアテマラ~

降りる場所を通り過ぎていただなんて…。 途方に暮れて煙草を一服。 バックパックを放り投げたあのチキンバスの乗務員の顔を思い出しさらに腹が立った。 しかし神は我を見捨てなかった。 近くの商店で買い物をしていたシエラ方面に向かう家族旅行の車と交渉し、「148㎞ポイント」まで乗せて行ってもらえることになったのだ。 15ケツァールくれればね!という話だったけれども、渡りに船である。気持ちよくそれを支払った。 「148㎞ポイント」で降ろしてもらい、バスやトゥクトゥクにタクシー、あらゆる交通機関の運転手に声を掛けてサン・ペドロ・ラ・ラグーナ行きかを聞いた。 しかしどれも行かないと言う。辺りが薄暗くなり不安が高まる。 30分ほど待ってると「サン・ペドロ~!サン・ペドロ~!」と乗務員が叫ぶバスがやって来た。 今度はバックパックは後部ドアから座席の下へ入れてもらい、荷物を屋根からぶん投げられる心配はなくなった。 けれど、 「バックパックが重いから5ケツァール余計に払え。」 と、集金係が言うではないか。運賃含め15ケツァール。この国の物価やシステムが飲み込めず苛立ちしか出てこない。気分の悪いままチキンバスに乗り込むと客はぎゅうぎゅう詰め。 さらには道路がどんどん悪くなってバスの進むスピードがやたらと遅い。バスが激しくバウンドする度に首を痛めてしまうのでは?と思うほどの衝撃を感じる。 けれど、こういう辛さだったり面倒臭さが実は大好きなのであって、旅を好きな人ってのはドMなんじゃないかって良く思う。 はじめは満員だったバスもどんどん人が降りて行き、1時間ほど経って陽が落ちて闇に包まれた頃には4~5人し

グアテマラ、サン・ペドロ・ラ・ラグーナを目指して~グアテマラ~

メキシコ、タパチュラの街からコレクティーボに乗ってグアテマラとの国境の街シウダー・イダルゴに向かった。 タパチュラやアカコヤグアで出会った人たちの顔を思い出しながら、突如始めたメキシコの日系移民の歴史の足跡をたどる旅を振り返っていた。 途中コレクティーボはシウダー・イダルゴの少し手前でぴたりと進まなくなってしまった。何事かと思い外を身を乗り出すように覗くと、グアテマラへ送られていくアメリカの中古スクールバスの長い列によって出来た渋滞で進めないようだった。 その黄色いスクールバスはグアテマラに入るとカラフルにデコレーションされたり、派手な音のクラクションを着けられたりして大幅な改造の後にグアテマラ庶民の足となる。 スクールバスはグアテマラに入ると「チキンバス」と呼び名が変わり、路線や時間帯によってはバス強盗が出ると聞いていた。 チキンバス強盗で命までは取られたくはないなぁ、などと思いながら車が進みだすのを待った。 なんだかんだで日本を出てアメリカとメキシコだけで一年になろうとしていた。 やっとこさ3か国目に入る訳だ。歩みの遅い亀のような旅だ。 コレクティーボがシウダー・イダルゴに着くと、国境の検問所は歩いてすぐの場所にあった。 リキシャの親父の誘いを断りメキシコの入管へと歩く。 メキシコの出国審査はスムーズに終わったのだが、グアテマラへと向かう橋を渡る通行料で2ペソ必要だったのは意外だった。このあたりはスチアテ川という名の川が国境線になっている。 その橋を渡っている時に一つ気づいたことがあった。 国力の差が出ているのだろうか、メキシコ側の通路には日よけの屋根がついているのだけれど

「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅・補足情報~メキシコ~

自分らしくない事をしたせいか、はたまたその結果に満足したのか、タパチュラを離れグアテマラに入り2週間ほどのんびりしている。 今回は、自分なりに調べ訪れた「メキシコの日系移民の歴史の足跡」に関する場所などの情報を記しておくことにする。 1.プエルト・チアパス(プエルト・マデロ) グーグルマップアドレス https://goo.gl/maps/KKkuw4dte492 アクセス:タパチュラのメルカドのそばにあるコレクティーボ乗り場からおよそ1時間、20ペソ。 2.タパチュラ日系文化クラブ(タパチュラ) 通りに面したこの看板が目印。 グーグルマップアドレス https://goo.gl/maps/tPka6J5xNVC2 日系二世の浜田さんが運営する文化センター。 2016年10月現在行われているコース 日本語クラス:火曜日・木曜日(午前9:00~10:00/午後18:00~19:00) 合気道(剣術・護身術含む):月曜日・水曜日・金曜日(午後18:00~20:00) 禅(瞑想):土曜日(午前7:45~9:00頃まで) このほか、おりがみのコースもあるとの事。 主催の浜田さん曰く、「タパチュラに来られた際はぜひ覗いていってください!」との事。 電話 +52-044-962-100-6464 (浜田さん) 3.「日墨協会チアパス(タパチュラ)」 グーグルマップアドレス https://goo.gl/maps/ihcHxTpaQm92 開館時間:月~土曜日 8:00~12:00 14:00~18:00 こちらでは空手のコースも行われている模様。 4.榎本殖民団記念碑(アカコヤグ

「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅⑧~タパチュラ・メキシコ~

二度目のアカコヤグアへの旅を終え、見るべきものは見たような気になっていた。 あとはタパチュラにあるいくつかの日系人ゆかりの場所を見学すれば、自分なりの「メキシコの日系移民の足跡」をたどる旅も終わりだと思っていた。 毎日行われる「タパチュラ日系文化クラブ」の何かしらのコースに参加しながら、足跡をたどる事一週間。 土曜日、週の最後に行われる「禅」のコースに参加したのが「タパチュラ日系文化クラブ」を訪れた最後だった。 やって来た生徒は一人。そのゲイの男性は失恋を機に「禅」のコースを始めたと言う。マッチョ信仰(マチスモ)のメキシコでもゲイは多い。メキシコシティなんかだと、公衆の面前で熱くいちゃつく彼らの姿をよく目にする。 10分ほど座禅を組み、さほど広くない教室を少し歩く。それを3セット繰り返し「禅」のコースは終わった。 コースが終わった後、浜田さんに明日か明後日にはタパチュラを離れてグアテマラに行く事を伝えた。 その時、浜田さんと話していて印象的だった一言がある。 「武士道、大和魂と言うものが好きなんですよ。」 幼い頃少し日本に居た事があると言う浜田さんは、まさに「海を渡ったサムライ」だった。 榎本殖民団も明治時代の話なので、江戸時代の「サムライ」の気概を持った人達だったであろう。 そんな「サムライ」達も、アカコヤグアに入植した時は相当な苦労をしたようだ。 榎本殖民団36名の1人、有馬六太郎氏はこう記したという。 「来て見て驚いたのは一帯に恐ろしい岩山である。こんな所にどうして珈琲が作れるのか...(中略)吾々はほとんど絶望に近い心持になり乍ら(ながら)働くことは大いに働いた。夫れ

「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅⑦~アカコヤグア・メキシコ~

どうしても見ておかなくてはならない気がした「Rancho Tajuko(タフコ農場)」はアカコヤグアの村から少し離れたところにあった。 先日、浜田さんに連れてきてもらったアカコヤグアなのだが、どうしてもその農場が見たくなり今度は一人で尋ねる事にしたのだ。 「Rancho Tajuko(タフコ農場)」は榎本殖民団36名の内の1人、山本浅次郎氏が興した農場だ。中南米エリアでの日系移民が作った初めての農場という訳である。 今回のメキシコの日系移民の足跡をたどる旅でも重要な場所だ。 タパチュラからコレクティーボでエスクイントゥラまで行き、乗り合いタクシーに乗りかえアカコヤグアまでやって来た。 タフコ農場までは地図を見る限りは歩いて行けるようだったが、行きの道はトゥクトゥクに乗って行く事にした。 村から北へ進む道は次第に舗装も無くなり、トゥクトゥクもスピードを出せなくなった。 ジャングルの中をのんびり進む事10分程だろうか、見晴らしの良い場所に出てしばらくするとタフコ農場に着いた。 どことなく和風な門構えだ。 農場へ勝手に入るのもどうかと思い、門の外から農場を眺める事にした。 日系移民の始まりの地であって、現在もなお続く歴史ある農場。 このタフコ農場で、1901年『三奥組合』と言う組織が作られた。 『三奥組合』は、崩壊後もアカコヤグア周辺に留まった榎本殖民団6名によって作られた事業組合である。 「三奥」とは組合員の出身地、三河(愛知県東部地方)と奥州(東北地方)から一文字づつ取り名付けられた。 誰もが私有財産を持つ事が禁じられ、それらを組合の資本とした。 さらに組合員は組織としてあがった

「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅⑥~タパチュラ・メキシコ~

アカコヤグアから帰り、再びタパチュラ日系文化クラブの日本語のコースに参加した。 普段ボケーっと過ごしている自分からした大忙しの一日である。 生徒は小児科医のドクトル・ペレスさんと言った。 日本語を始めて一年だそうで、その日本話を聞くと自己紹介は何とかクリアできると言ったレベルだった。 お互い自己紹介を日本語でしたりしながら、ドクトルの話し相手になった。日本語での会話はもどかしい部分もあったが、「今度ビールを飲みに行きましょう!」と彼からお誘いを受けた頃授業は終了した。 比較的強い雨が降る中、浜田さんと会館を閉めて「チアパス日墨協会」へ向かった。 今、日本大使館の方がそこに来ていて何やらミーティングをしているらしい。 へ?と思ったが、浜田さんが僕にも是非と言うので彼にくっついていく事になった。 街の中心ソカロあたりから浜田さんの運転する車で少し走った所に「チアパス日墨協会」はあった。 トントントンと浜田さんが門を叩く。中から出てきた人に門を開けてもらい敷地に通され建物へと招かれた。 ミーティングはすでに始まっていて、テーブルを囲み10人ほどの人々が何やら真剣に話し合いをしていた。このミーティングは11月にタパチュラ・アカコヤグアを日本大使が訪問するにあたり、日墨協会がそれをサポートするので事前の準備・当日の流れなどの確認をしていると言う事だ。 部外者の僕はテーブルから離れた所に座ってしばらくミーティングの様子を伺っていた。 場違いな場所に来てしまったに違いないと思って少し緊張もしていたが、先日お会いしたフェリペさん(ツジさん)の姿もあったので少しほっとした。 話が一段落したのか、

「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅⑤~アカコヤグア・メキシコ~

記念碑、墓地とアカコヤグアの村にある日系移民の足跡をたどった後、浜田さんは一軒の家を尋ねた。 アカコヤグアには「江戸村」と名付けられた日本・メキシコの文化交流の為に作られた文化会館があり、その管理者を尋ねると言うのだ。 江戸村の管理者、ヴェロニカさんは不在だったが家族の方が電話で連絡を取ってくれた。しばらくしたら戻ってくると言う話を聞き、中庭で冷たいオレンジジュースを頂きながら彼女が戻ってくるのを待った。 程なくしてヴェロニカさんは戻って来た。 日系3世の女性ヴェロニカ・コムカイ・マツイさんは浜田さんと旧知の仲らしく、浜田さんが事情を説明すると彼女は江戸村に一緒に行き会館を開けてくれる事になった。 車を少し走らせると、村の北側の行き止まりになった道沿いに「江戸村」はあった。 田舎の村にしてはずいぶん立派な建物である。 ヴェロニカさんに鍵を開けてもらい中に入ると、その会館の綺麗さに驚いた。彼女をはじめとした日系の方々の力で綺麗に保たれているに違いない。 広い会館の端っこにあったテーブルの上に一枚の古い写真が飾られていた。 これは1914年5月24日、昭憲皇太后(明治天皇の妃)の大喪の礼の時にエスクイントゥラにあったドクトル・オオタ(太田連二氏)の家に集まった日系移民の方々の写真だった。 祖国を離れても日本の国事に合わせて日本人の集まりを異国の地でも行っていたとは。 その写真の前に一冊の漫画があった。 『Los Samurais de Mexico』 ネットでメキシコの日系移民を調べていた時に知った漫画、『サムライたちのメキシコ』のスペイン語版だった。 表紙の内側に江戸村会館のスタ

「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅④~アカコヤグア・メキシコ~

タパチュラからジャングルを突っ切るように通る一本道を浜田さんの運転する車は走っていく。 車の外は暑いが、車が走っていれば窓から入る風が心地よい。 およそ一時間ほど走ったアカコヤグアの村の手前あたりで浜田さんは急に車を止めた。 何事かと思っていると、白と赤の小さな塔の方へ浜田さんは向かっていった。呼ばれたのでそこへ向かうと、「Dr.OTTA(ドクトル・オオタ)」と呼ばれた太田連二氏の功績を讃えた碑だった。 存在を知らなかったこの記念碑に出会えた事で、この日の「メキシコの日系移民歴史をたどる旅」の幸先が良いなと感じた。 この時はどういう人だか詳しく分からなかったのだが、後日調べてみると榎本殖民団36人の1人であった。 彼は医学の素質があったようで、医師ではないが太平洋横断中の船の中でも病人の面倒をみたりしていたそうな。 入植してからは日本人医師ニヘイ氏に従事して医学を習った後、医師として貧しい人から金もとらずにその面倒を見た人だそうだ。 「医は仁術なり」をそのまま実践したと言えばよいのか。 そんな心優しきドクトル・オオタは1917年42歳にして黄熱病で倒れ、亡くなってしまう。 街道の脇に佇むこの塔はアカコヤグア周辺の地元の人々を怪我や病気から守ったドクトル・オオタのその功績を讃えていたのだ。 アカコヤグアに到着してまず向かったのは「榎本殖民記念」と書かれた塔のある公園だった。 小さな村の公園のおよそ中央に位置する記念碑は榎本殖民団がメキシコに渡って70年の記念に建てられたものだ。 見たかった、訪れたかった場所に居る事でグッとテンションがあがり、何枚もの写真を撮った。 メキシコ

「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅③~タパチュラ・メキシコ~

1897年榎本殖民団が上陸したプエルト・チアパスへ足を運んだ翌日、浜田さんの運営する「タパチュラ日系文化クラブ」へお邪魔する事になった。 日系二世の浜田さんが運営するクラブでは、日本語教室・合気道(剣術・護身術を含む)・禅・折り紙などのコースを開催している。13年前からクラブは活動しているそうで、現在は全て合わせると20人ほどの生徒さんが居ると言う。 コースのほぼ全ての講師を浜田さんが務め、彼は仕事の傍ら多くの時間をクラブに費やしている。 その日は合気道のコースがある日で、その様子を見学して写真を取らせてもらおうと思っていたのだが、メキシコ人の生徒さん達と一緒に合気道の練習に参加する事になってしまった。 合気道のコースは18時から20時頃まで行われた。 コースの始まりは、浜田さんの前に僕を含めて7人の生徒が正座をして並び床に手をついて礼をする事から始まる。続いて合気道の創始者、植芝盛平の写真に向かって礼をする。この間浜田さんの号令はすべて日本語だ。 基本の構えや足の動かし方などから始まり1時間もすると、実践的な練習になり、二人一組となって攻撃してくる暴漢側と合気道でそれを制圧する側に分かれる。ナイフを模した小さな木刀やプラスティックバットを使ってくる相手から身をかわし、手や腕を極めてねじふせる。 まだ日の浅い生徒さんも多く、前後左右体の動きがめちゃくちゃになってしまう人も居たが、残念な事に僕もその一人であった。 この日、小学生くらいの子供もいたのだが運動音痴っぷりが酷かった。 浜田さんによればメキシコでは日本の体育で行われるような体操や跳び箱のような運動をせず、サッカーをしたり

「メキシコの日系移民の歴史の足跡」をたどる旅②~タパチュラ・メキシコ~

タパチュラ到着初日に日系の方と会う事が出来た僕は、翌日「榎本殖民団」が到着したと言うプエルト・チアパスへ足を運ぶ事にした。 榎本殖民団とは、幕末から明治にかけて活躍した武士・政治家である榎本武揚の主導のもとで組織された移民グループである。 1897年、36名からなる榎本殖民団は横浜港を出港しアメリカのサンフランシスコ・メキシコのアカプルコを経由した後、プエルト・チアパスに到着した。 その頃はサン・ベニート港という名前だったプエルト・チアパス。 しかし36名のうちの1人は船旅の道中に亡くなってしまい、35名がプエルト・チアパスに上陸した。 タパチュラの街からコレクティーボ(1BOXを改造したミニバス)で1時間ほどで行けると聞いていた。 朝早くに起きた僕はタパチュラで一つ見ておきたいものがあったのでそれを済ませてから行く事にした。 それはタパチュラの街にある秋篠宮殿下の名を冠した通りだ。 「bulevar Akishino(秋篠大通り)」 秋篠宮殿下が日系移民100周年、1997年にメキシコを訪問した際に敬意を表し改名されたと言う。よほど立派な通りなのかと思っていたのだが、実際に足を運ぶと街の外れにある少し寂しい大きな通りだった。 PEMEX、ガソリンスタンドも「Akishino」の名がついていた事には驚いた。 この通り沿いには「榎本協会日本メキシコ会館」と言う建物があり、小さな記念碑が見受けられたが鉄の扉は施錠されていて人気は無かった。 誰も居る様子もないので立ち去ろうとすると、建物の横の路地が「Calle Enomoto (榎本通り)」となっていた事に気付いた。 メキシコでは

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